LOGIN江戸が燃えている。
それは比喩ではなく、物理的な事実としての地獄だった。明暦の大火以来と言われる紅蓮(ぐれん)の炎が、乾燥しきった木造家屋を次々と舐め尽くし、夜空を焦がしている。
お龍は、その赤熱する風の中を、一人逆行していた。
人は皆、川へ、広場へと逃げていく。その流れに逆らって歩くことは、川を遡る鮭のように困難であり、そして自滅的だった。
熱い。
皮膚がチリチリと音を立てて乾いていくのが分かる。肺の中に入ってくる空気は、酸素を含まない熱湯のようだ。吸うたびに気管支が焼け爛(ただ)れ、喉の奥から鉄の味が溢れ出す。
しかし、お龍の意識は、かつてないほど澄み渡っていた。
医学的に言えば、極度の低酸素状態と高熱による脳内麻薬の過剰分泌が、彼女を一種のトランス状態に導いていたのだろう。
彼女の目には、燃え盛る町が「巨大な生き物の体内」に見えていた。
崩れ落ちる柱は、折れた肋骨だ。
吹き上がる火柱は、動脈から噴き出す鮮血だ。 舞い散る火の粉は、細胞の核だ。「……綺麗」
お龍はうわ言のように呟いた。
彼女は職人だ。構造を見る。材質を見る。
火事という破壊の現象の中にさえ、彼女は「解体」という美学を見出していた。世界の外皮が剥がれ落ち、その内側にある純粋なエネルギーが露出しようとしている。足がもつれ、何度も転んだ。
膝の皮が剥け、着物の裾が焦げた。
それでも彼女は立ち上がり、根津の路地裏を目指した。
なぜ戻るのか。
そこに「あわい屋」があるからだ。
あそこはただの仕事場ではない。彼女の子宮であり、墓場であり、世界との唯一の接点だった。作りかけの道具は清次に託した。魂の分身は逃がした。
ならば、その抜け殻である「私」は、元の鞘(さや)に戻らなければならない。ようやく、見慣れた路地に辿り着いた。
奇跡的に、あわい屋のある長屋の一角だけが、まだ炎に包まれていなかった。風向きのいたずらか、あるいは神の気まぐれか。
しかし、周囲は火の壁に囲まれている。ここが燃え落ちるのも時間の問題だ。
「……ただいま」
お龍は煤(すす)だらけの手で、格子戸を開けた。
ガラリ、と乾いた音がした。
室内は静まり返っていた。外の轟音が嘘のように、そこだけ時間が止まっている。
使い込まれた鑿(のみ)、檜の切り屑、壁に掛けられた図面。漆の甘い匂いが、焦げ臭い空気の中に微かに残っている。お龍は土間に倒れ込むように座り込んだ。
もう、指一本動かせないほどの疲労が襲ってきた。
その時。
「ニャア」
闇の奥から、白い影が現れた。
文(ふみ)だった。
盲目の猫は、逃げていなかった。お龍が戻ってくることを知っていたかのように、作業台の下で丸くなっていたのだ。
「文……」
お龍は涙を流しながら、猫を抱き上げた。
「お前も、逃げ遅れたのかい。……それとも、待っていてくれたのかい」
文は答えず、ゴロゴロと喉を鳴らして、お龍の胸に頭を擦り付けた。
猫の体温。柔らかい毛並み。お龍は文を抱いたまま、工房の真ん中に座った。
ふと、視界の隅に光るものがあった。
南蛮渡来の鏡だ。清次が以前、骨董市で見つけて買ってきてくれたものだ。歪んだガラスの表面に、炎の赤が映り込んでいる。
お龍は這うようにして鏡に近づき、自分の顔を映した。
そこには、鬼がいた。
髪は振り乱れ、顔は煤と血で汚れ、目はくぼみ、頬骨が鋭く突き出している。死相そのものだ。
だが、お龍はその顔を見て、美しいと思った。
「……いい骨だ」
彼女は自分の頬骨を指でなぞった。
余計な肉が落ち、生命の支柱である骨が、皮膚の下で白く輝こうとしている。
労咳という病が、彼女の体を彫刻していたのだ。余分なものを削ぎ落とし、魂の形を露わにするために。「私も、作品だったんだね」
誰の作品か。神か、病か。
お龍は着物を寛げた。痩せさらばえた肋骨が浮き出た胸。平らな腹。
彼女は近くにあった漆の刷毛(はけ)を手に取った。壺に残っていた朱色の漆。
彼女はそれを、自分の乳房に、腹に、太腿に塗り始めた。
冷たくて、熱い。
漆の毒が皮膚を刺激し、痛痒さが走る。だが、それすらも快感だった。自分自身を、最後の張形にする。
燃え尽きる前に、完璧に仕上げる。炎の音が近づいてくる。バリバリと音を立てて、隣の家が崩れる音がした。
お龍は文を抱きしめ、漆塗りの体で、静かに目を閉じた。
清次は走っていた。 心臓が破裂しそうだった。肺が悲鳴を上げている。だが、足は止まらなかった。 彼の胸には、桐の箱が抱かれている。 それは赤ん坊よりも軽く、しかし世界そのもののような重さを持っていた。「どけ! どいてくれ!」 清次は狂乱する群衆をかき分けた。 上野広小路あたりは、地獄の様相を呈していた。大八車(だいはちぐるま)が横転し、家財道具が散乱し、逃げ惑う人々が将棋倒しになっている。 一人の大男が、清次の肩にぶつかってきた。「邪魔だ!」 男は激情に駆られ、清次を突き飛ばそうとした。 清次は転びそうになったが、箱だけは高く掲げて守った。その代わり、腰の大小(刀)が地面に打ち付けられた。 カチャリ、と音がした。「てめぇ、どこ見て歩いてやがる!」 男が逆上して掴みかかってくる。 清次の目が据わった。 彼は刀を抜かなかった。抜く必要がなかった。 彼は箱を左手に抱え直し、右手で刀の鞘(さや)ごとその男のみぞおちを突き上げた。 古流剣術の「鞘当て」。 男は呻き声を上げて崩れ落ちた。 清次は自分でも驚いていた。体が勝手に動いたのだ。 かつて彼を不能にし、剣を捨てさせたトラウマ――「人を傷つけることへの恐怖」が、この瞬間だけは消えていた。 なぜなら、彼には守るべきものがあったからだ。 これは単なる木彫りの道具ではない。お龍の命だ。お龍の骨だ。 彼女が削り、磨き、血を混ぜて塗り上げた、魂の結晶だ。「……俺は、これを届けねばならない」 誰に? 未来に。 お龍という女がいた証を、灰にさせずに残すこと。それが、不能の侍である自分に与えられた、唯一にして最大の使命だった。 隅田川の土手まで出ると、少しだけ熱気が和らいだ。 川面には無数の船が浮かび、対岸へ逃げようとする人々でごった返している。「清次さん!」
江戸が燃えている。 それは比喩ではなく、物理的な事実としての地獄だった。明暦の大火以来と言われる紅蓮(ぐれん)の炎が、乾燥しきった木造家屋を次々と舐め尽くし、夜空を焦がしている。 お龍は、その赤熱する風の中を、一人逆行していた。 人は皆、川へ、広場へと逃げていく。その流れに逆らって歩くことは、川を遡る鮭のように困難であり、そして自滅的だった。 熱い。 皮膚がチリチリと音を立てて乾いていくのが分かる。肺の中に入ってくる空気は、酸素を含まない熱湯のようだ。吸うたびに気管支が焼け爛(ただ)れ、喉の奥から鉄の味が溢れ出す。 しかし、お龍の意識は、かつてないほど澄み渡っていた。 医学的に言えば、極度の低酸素状態と高熱による脳内麻薬の過剰分泌が、彼女を一種のトランス状態に導いていたのだろう。 彼女の目には、燃え盛る町が「巨大な生き物の体内」に見えていた。 崩れ落ちる柱は、折れた肋骨だ。 吹き上がる火柱は、動脈から噴き出す鮮血だ。 舞い散る火の粉は、細胞の核だ。「……綺麗」 お龍はうわ言のように呟いた。 彼女は職人だ。構造を見る。材質を見る。 火事という破壊の現象の中にさえ、彼女は「解体」という美学を見出していた。世界の外皮が剥がれ落ち、その内側にある純粋なエネルギーが露出しようとしている。 足がもつれ、何度も転んだ。 膝の皮が剥け、着物の裾が焦げた。 それでも彼女は立ち上がり、根津の路地裏を目指した。 なぜ戻るのか。 そこに「あわい屋」があるからだ。 あそこはただの仕事場ではない。彼女の子宮であり、墓場であり、世界との唯一の接点だった。 作りかけの道具は清次に託した。魂の分身は逃がした。 ならば、その抜け殻である「私」は、元の鞘(さや)に戻らなければならない。 ようやく、見慣れた路地に辿り着いた。 奇跡的に、あわい屋のある長屋の一角だけが、まだ炎に包まれていなかった。風
翌日、夕霧が持ってきたのは、寺の墓守に金を握らせて手に入れた「人骨」……ではなく、古い卒塔婆(そとば)の木片だった。さすがに人骨そのものを掘り出す度胸は、夕霧にも、そして墓守にもなかったのだ。「ごめんよ、お龍さん。これくらいしか……」「いいの。ありがとう」 お龍は、風雨に晒されて灰色に変色した卒塔婆を受け取った。そこには戒名が書かれているが、すでに判読不能になっている。 死者の魂が染み付いた木。 お龍はそれを細かく砕き、炭にした。 彼女の計画は少し変更された。他人の骨を使うのではない。やはり、自分のものでなければ意味がない。 だが、生きている自分の骨を取り出すわけにはいかない。 そこで彼女が目をつけたのは、「髪」と「血」と「爪」だった。 古来より、これらは呪術的な意味を持つ身体の一部である。 お龍は自分の長く伸びた髪を切り落とした。それを細かく刻み、漆のペーストに混ぜ込む。 さらに、喀血した際の血を、丁寧に濾紙(ろし)で漉(こ)し、顔料であるベンガラの代わりに混ぜる。 血の鉄分が漆と反応し、独特の黒味を帯びた赤色――「どす赤」に変色する。「綺麗……」 お龍はその色を見て、うっとりと呟いた。 それは生命の色であり、同時に死の色でもあった。 工房は今や、錬金術師の実験室の様相を呈していた。 部屋の四隅には結界のように注連縄(しめなわ)が張られ、中央には奇妙な匂いのする壷が置かれている。 清次が訪ねてきたのは、そんな時だった。「……おい、この異様な雰囲気は何だ」 清次は部屋に入るなり、眉をひそめた。「新しい技法の実験中ですよ」 お龍は短くなった髪を揺らしながら微笑んだ。痩せこけた頬、落ち窪んだ目、しかし瞳だけが爛々と輝いている様は、さながら鬼気迫る巫女のようだった。「髪を切ったのか」
根津の町に、初夏を告げる祭囃子が遠く聞こえる季節になった。だが、「あわい屋」の空気は張り詰めていた。 お龍の病状が悪化していた。 朝、布団から起き上がるだけで息が切れる。痰に混じる血の量が増え、色は鮮血からどす黒い凝血へと変わっていた。 それでも、彼女は鑿を置かなかった。 むしろ、取り憑かれたように制作に没頭していた。 今の依頼品は、吉原でも指折りの太夫(たゆう)からの注文だった。『普通の木では満足できない。私の肌に負けない、艶(つや)のあるものを』 お龍が選んだのは、漆黒の「黒柿(くろがき)」だった。数万本に一本しか出ないと言われる、黒い紋様が入った希少な柿の木だ。その模様は、まるで墨を流したように妖しく、見る者を不安にさせる美しさがあった。「……硬い」 黒柿は石のように硬い。鑿の刃がすぐに零(こぼ)れる。 お龍は何度も砥石で刃を研ぎ直し、脂汗を流しながら削り続けた。 その作業中、夕霧が駆け込んできた。 普段の落ち着き払った様子はない。顔色は蒼白で、髪も乱れていた。「お龍さん! 大変だ!」「どうしたの、藪から棒に」「手入れだよ! 北町奉行所の!」 お龍の手が止まった。「吉原に?」「違う、ここら辺の裏長屋一帯さ! 『好色本や淫具を作っている不埒者』を狩り出すって……今、隣の版木屋がやられた!」 お龍は背筋が凍るのを感じた。 いよいよ来たか。 清次の警告通りだった。水野忠邦の「天保の改革」の余波が、この路地裏まで押し寄せてきたのだ。「逃げなきゃ! 道具を持って!」 夕霧はお龍の手を引こうとした。 だが、お龍は動かなかった。動けなかったのだ。 彼女の視線は、作りかけの黒柿の張形に釘付けになっていた。「まだ……磨きが終わっていない」「何を言ってるんだい! 命とどっちが大事なんだ!」「これが私の命だよ!」 お龍が叫んだ。その拍子に激しく咳き込み、床に鮮血を撒き散らす。 夕霧は悲鳴を上げそうになるのを堪え、お龍を背中から抱きしめた。「馬鹿っ……! あんたって人は……!」 その時、表通りから怒声と、戸板を蹴破る音が聞こえてきた。「御用だ! 神妙にしろ!」 捕り手の足音が近づいてくる。砂利を踏む草鞋(わらじ)の音が、死神の足音のように響く。「……隠そう」 夕霧が言った。彼女の目には覚悟の色があった。「床
雨が上がった翌日の午後は、空気が澄んで、木材の乾燥には最良の日和だった。 お龍は工房の縁側に座り、さまざまな種類の木材を広げていた。 檜(ひのき)、朴(ほお)、椿(つばき)、そして南洋から渡ってきたという黒檀(こくたん)。 それぞれの木には個性がある。檜は香りが高く、殺菌作用があるため、清浄な用途に向いている。朴は柔らかく加工しやすいが、耐久性に欠ける。黒檀は石のように硬く、冷たい。「お龍さん、いるかい?」 路地の方から、鈴を転がすような高い声がした。 吉原の遊女、夕霧(ゆうぎり)である。 彼女は今日、非番の日を利用して、「あわい屋」を訪ねてきたのだ。派手な打掛ではなく、地味な町娘のような着物を着ているが、その歩き方ひとつに染み付いた色気は隠しようがない。「あら、夕霧。珍しいじゃない」「ちょっと近くまで来たからさ。……嘘よ、あんたに会いたくて足が勝手に向いちゃった」 夕霧は悪戯っぽく舌を出して、慣れた様子でお龍の隣に腰掛けた。 彼女からは、高級な白粉(おしろい)と、微かな伽羅(きゃら)の香りがした。それは遊郭という閉ざされた世界の匂いだ。「精が出るねえ。また新しい注文かい?」 夕霧は広げられた木材の一本を手に取った。真っ白な木肌の檜だ。「ええ。神田の商家の旦那さんからよ。奥方が不感症で悩んでいるらしくて、少し刺激の強いものを、とね」「男ってのは勝手だねえ。自分の腕が悪いのは棚に上げて、道具に頼ろうってんだから」 ケラケラと笑う夕霧の横顔を、お龍は眩しそうに見つめた。 夕霧は美しい。透けるような白い肌、切れ長の目、そして何より、生命力に溢れている。彼女の体は、お龍の病んだ肉体とは正反対の、瑞々しい果実のようだ。「ねえ、お龍さん」 夕霧がふと真顔になり、お龍の手を取った。「あんたの手、随分と荒れてるよ。……また、無理してるんじゃないのかい?」 夕霧の指が、お龍の指のささくれを優しく撫でる。その指先は温かく、柔らかかった。「職人の手だからね。仕方ないわ」「嘘だ。あんたの手は、冷たすぎる」 夕霧は、お龍の手を自分の着物の懐――帯の間へと引き入れた。そこは温かかった。乳房の膨らみと、心臓の鼓動が直接伝わってくる。「……夕霧……」「あたしが温めてあげる」 真昼の縁側である。人通りは少ないとはいえ、誰に見られるかも分からな
江戸の空が、重たい鉛色に沈んでいる。根津の裏路地、湿った風が吹き抜ける長屋の一角に、「あわい屋」という小さな看板が揺れていた。 六畳一間の工房には、鼻孔を刺すような甘酸っぱい匂いが充満している。漆の匂いだ。それは森の精気が腐敗する寸前で放つような、濃密で、どこか淫靡な香りを孕んでいる。 お龍(おりゅう)は、薄暗い行灯(あんどん)の光の下で、一本の木塊(きくれ)と対峙していた。 素材は、樹齢五十年の柘植(つげ)。硬く、緻密で、人間の肌にもっとも近い弾力を持つと言われる木だ。お龍の細い指が、鑿(のみ)の柄を強く握りしめる。指の関節は白く浮き上がり、そこには無数の細かい切り傷と、漆による気触(かぶ)れの跡が刻まれていた。職人の手だ。けれど、その手つきは慈母が赤子を撫でるように繊細でもあった。 シュッ、シュッ。 鋭利な刃先が木肌を削る音が、静寂の中に吸い込まれていく。 彼女が彫っているのは、仏像ではない。簪(かんざし)でもない。男根を模した性具――張形(はりがた)である。 しかし、お龍の張形は、巷に溢れる春画のような誇張された代物とは一線を画していた。血管の一筋、亀頭の微かな歪み、睾丸の皺の寄り具合に至るまで、徹底的な写実主義(リアリズム)に基づいている。それは単なる快楽の道具というよりも、失われた肉体の一部を補完する「義肢」に近い厳粛さを纏っていた。「……ふぅ」 お龍は鑿を置き、小さく息を吐いた。 途端に、喉の奥から込み上げてくるものがあった。 ごほっ、ごほっ、ごほっ。 乾いた咳が止まらない。背中を丸め、畳に手をついて激しく咳き込む。肺の奥で、錆びたふいごが軋むような音がする。胸郭が痛み、視界が白く明滅する。 ようやく発作が収まり、お龍は口元を懐紙でぬぐった。 白い紙の上に、鮮やかな紅が散っている。 それは、彼女が仕上げに使う最高級の辰砂(しんしゃ)の赤よりも、ずっと生々しく、不吉な輝きを放っていた。 鉄の味。 口の中に広がる血の味は、奇妙なほど冷たく、そして甘かった。「……また、少し減ったね」 お龍は誰に聞かせるでもなく呟いた。減ったのは、自分の命の時間だ。 彼女は労咳(ろうがい)を病んでいた。 江戸の町医者は「精のつけすぎだ」などと適当なことを言ったが、お龍は自分の体が内側からゆっくりと溶けていく感覚を、確かな解像度で把握