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第五章 骨の還る場所

ผู้เขียน: 佐薙真琴
last update ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-16 10:56:07

 江戸が燃えている。

 それは比喩ではなく、物理的な事実としての地獄だった。明暦の大火以来と言われる紅蓮(ぐれん)の炎が、乾燥しきった木造家屋を次々と舐め尽くし、夜空を焦がしている。

 お龍は、その赤熱する風の中を、一人逆行していた。

 人は皆、川へ、広場へと逃げていく。その流れに逆らって歩くことは、川を遡る鮭のように困難であり、そして自滅的だった。

 熱い。

 皮膚がチリチリと音を立てて乾いていくのが分かる。肺の中に入ってくる空気は、酸素を含まない熱湯のようだ。吸うたびに気管支が焼け爛(ただ)れ、喉の奥から鉄の味が溢れ出す。

 しかし、お龍の意識は、かつてないほど澄み渡っていた。

 医学的に言えば、極度の低酸素状態と高熱による脳内麻薬の過剰分泌が、彼女を一種のトランス状態に導いていたのだろう。

 彼女の目には、燃え盛る町が「巨大な生き物の体内」に見えていた。

 崩れ落ちる柱は、折れた肋骨だ。

 吹き上がる火柱は、動脈から噴き出す鮮血だ。

 舞い散る火の粉は、細胞の核だ。

「……綺麗」

 お龍はうわ言のように呟いた。

 彼女は職人だ。構造を見る。材質を見る。

 火事という破壊の現象の中にさえ、彼女は「解体」という美学を見出していた。世界の外皮が剥がれ落ち、その内側にある純粋なエネルギーが露出しようとしている。

 足がもつれ、何度も転んだ。

 膝の皮が剥け、着物の裾が焦げた。

 それでも彼女は立ち上がり、根津の路地裏を目指した。

 なぜ戻るのか。

 そこに「あわい屋」があるからだ。

 あそこはただの仕事場ではない。彼女の子宮であり、墓場であり、世界との唯一の接点だった。

 作りかけの道具は清次に託した。魂の分身は逃がした。

 ならば、その抜け殻である「私」は、元の鞘(さや)に戻らなければならない。

 ようやく、見慣れた路地に辿り着いた。

 奇跡的に、あわい屋のある長屋の一角だけが、まだ炎に包まれていなかった。風向きのいたずらか、あるいは神の気まぐれか。

 しかし、周囲は火の壁に囲まれている。ここが燃え落ちるのも時間の問題だ。

「……ただいま」

 お龍は煤(すす)だらけの手で、格子戸を開けた。

 ガラリ、と乾いた音がした。

 室内は静まり返っていた。外の轟音が嘘のように、そこだけ時間が止まっている。

 使い込まれた鑿(のみ)、檜の切り屑、壁に掛けられた図面。漆の甘い匂いが、焦げ臭い空気の中に微かに残っている。

 お龍は土間に倒れ込むように座り込んだ。

 もう、指一本動かせないほどの疲労が襲ってきた。

 その時。

「ニャア」

 闇の奥から、白い影が現れた。

 文(ふみ)だった。

 盲目の猫は、逃げていなかった。お龍が戻ってくることを知っていたかのように、作業台の下で丸くなっていたのだ。

「文……」

 お龍は涙を流しながら、猫を抱き上げた。

「お前も、逃げ遅れたのかい。……それとも、待っていてくれたのかい」

 文は答えず、ゴロゴロと喉を鳴らして、お龍の胸に頭を擦り付けた。

 猫の体温。柔らかい毛並み。

 お龍は文を抱いたまま、工房の真ん中に座った。

 ふと、視界の隅に光るものがあった。

 南蛮渡来の鏡だ。清次が以前、骨董市で見つけて買ってきてくれたものだ。歪んだガラスの表面に、炎の赤が映り込んでいる。

 お龍は這うようにして鏡に近づき、自分の顔を映した。

 そこには、鬼がいた。

 髪は振り乱れ、顔は煤と血で汚れ、目はくぼみ、頬骨が鋭く突き出している。死相そのものだ。

 だが、お龍はその顔を見て、美しいと思った。

「……いい骨だ」

 彼女は自分の頬骨を指でなぞった。

 余計な肉が落ち、生命の支柱である骨が、皮膚の下で白く輝こうとしている。

 労咳という病が、彼女の体を彫刻していたのだ。余分なものを削ぎ落とし、魂の形を露わにするために。

「私も、作品だったんだね」

 誰の作品か。神か、病か。

 お龍は着物を寛げた。痩せさらばえた肋骨が浮き出た胸。平らな腹。

 彼女は近くにあった漆の刷毛(はけ)を手に取った。

 壺に残っていた朱色の漆。

 彼女はそれを、自分の乳房に、腹に、太腿に塗り始めた。

 冷たくて、熱い。

 漆の毒が皮膚を刺激し、痛痒さが走る。だが、それすらも快感だった。

 自分自身を、最後の張形にする。

 燃え尽きる前に、完璧に仕上げる。

 炎の音が近づいてくる。バリバリと音を立てて、隣の家が崩れる音がした。

 お龍は文を抱きしめ、漆塗りの体で、静かに目を閉じた。

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